ACT 1 ROARING・20’S
一九二〇年夏、ニューヨーク──。
マンハッタンのうだるような暑さは、北国ロシア育ちのマリアには、きついものだった。
ロウアー・イーストサイドの薄暗い路地で、彼女は木箱に腰掛けながら、粗末 な食事を取っていた。アメリカ流の水っぽいコーヒーや、パンが大きいだけのサ
ンドイッチの大ざっぱな味付けにも、もう慣れた。
彼女は白いシャツにベストを重ね、細身のロングパンツという、男装姿である。
ベストで胸元を締め付け、前髪でなかば顔を覆い、女であることを隠していた。
「マリア?」
突然、声をかけられマリアは反射的に足首に手を伸ばした。
薄着の今、銃は足首のホルダーに隠してある。
だが、声の主はそんな彼女の様子に含み笑いを洩らした。
「コラ、何をそんなに警戒してるの?」
「あやめさん……」
一人の東洋人女性が、逆光の中に立っていた。
「いつ、ニューヨークへいらしたんですか?」
「今日よ、たった今。マリアに逢いたくて、飛んで来たわ」
うふふ、と笑って、あやめはマリアに近づいた。はるかに背の高いマリアの頬をそっと撫でる。
「……少し、痩せたんじゃない?」
「そんなこと、ありません。私は元気ですよ、あやめさん」
「そう、ならいいけど」
あやめは長い髪をチューリップハットにおさめ、小花柄のワンピース姿だった。
よく、女一人でこの街を歩くものだ。
自分を棚にあげて、マリアは思う。
外見から、このしとやかな東洋のレディーがれっきとした陸軍中尉であることなど、わかる者はいないだろう。見る眼も、頭の中身も腐った外道どもが、手を
出さないだろうかと、マリアは真剣に心配したものだ。
しかし、あやめはいつも笑うばかりだった。どういう撃退法を使っているのかはわからないが、マンハッタン島であやめを襲う馬鹿はいない。
マリアが知っているのは、その事実だけだ。
「でも、あやめさん。どうして、ここが?」
「うっふふふふ。貴女のアパートまでいったら、おとなりのアニタさんのご主人が教えてくれたの」
「……あの人、滅多に口をきかないことで、有名なんですが」
「そう? ずいぶん親切だったけど」
あやめの口調には実に屈託がない。
その内、マリアは、自分が食事の最中だったことを思い出した。
「嫌だな、みっともない。こんな犬みたいに食べている所を見られたなんて」
マリアはかじりかけのサンドイッチを後ろ手に隠した。
「何をいうの。人は食べなきゃ生きてゆけないのよ?──そうだ、今夜は一緒に食事でもしましょう。私、マリアに見せたい物があるのよ」
「見せたい物……?」
いぶかしむマリアに、あやめは笑うだけだった。煙に巻く、という表現がぴたりと当てはまる笑顔である。しかし、それで不快な思いをすることはなかった。
マリアはあきらめた。
「わかりました。おつきあいしましょう」
「まあ、嬉しいわ、貴女のドレスもみたてましょうね!よければ、これからブルーミングデールズへでも買いに行きましょうか!」
あやめは高級プレタポルテのデパート名をあげた。
「ド、ドレス……」
マリアは声を詰まらせた。女らしい服装など、まるで縁がない半生だ。ドレスと聞いただけで、後込みした。
「あやめさん……、え、遠慮しておきます」
無理やり、笑顔をつくる。が、その顔はひきつっていた。
「その、正装なんて、しなくてすむ食事を……」
「いいじゃん、行ってきなよ」
おせっかいな第三者が割り込んで来た。
路地に面した扉が一つ開いて、彫りの深い尖った顎を持つ男が顔を出していた。
「レオン……」
「親爺さんが、今日はもういいってさ。せっかくだから、そこの美女を俺に紹介してから買い物にいってくれよな?」
男はそういって、あやめにウインクした。
戸惑うマリアにかまわず、あやめが男に微笑んだ。
「マリアの同僚の方?」
「同僚? そんな大層なもんじゃねえよ。しいていや、喧嘩仲間ってとこかな」
「レオン!」
「まあ、マリア。貴女、喧嘩なんかしているの?」
「してるの、してないのって、もう。人呼んで、『トマトジュース抜きのブラッディマリー』てなもんさ。その心は、『甘さのない、血まみれのマリア』ってか?
あ、でも、ブラッディマリーからトマトジュース抜いたら、只のウォッカか?」
おかしくもないくせに、げらげら笑って見せる。ロシアの血を引くマリアに対する露骨なあてこすりだ。
マリアは無表情を取り繕うと、
「わかったわ。今日はあがらせてもらう」
レオンに鍵を投げ渡して、さっさとその場を後にした。あやめは、丁寧に会釈するとマリアを追ってきた。レオンは、マリアと入れ替わりに木箱に座ると、口
笛を吹きながら、ナイフを磨き始めた。
二ブロックほど遠ざかってから、あやめが口を開いた。
「ねえ、マリア。貴女が座っていたあの箱の中身、『ムーンシャイン』ね?」
マリアは青くなった。
「図星、ね」
困ったような表情を浮かべて、あやめは振り返った。
「危ない仕事をしているようね?」
ムーンシャイン。
それは、今年から施行された、天下の悪法「禁酒法」下において、主にギャング達が組織的に売買する、密造酒の呼称である。
古来、人間の生活とアルコールが切り離されたためしはない。
結果的に、秘かに酌み交わされる『ムーンシャイン』は密輸や密造を手がける「ブートレガー」──ギャング一党に、莫大な資金をもたらすこととなった。
そして、マリアは今、そんな非合法なもぐり酒場の用心棒まがいの仕事で糊口をしのいでいた。
「貴女の仕事を邪魔する気はないのだけれど……、もっと他に仕事はないのかしら」
「保証人もない亡命者に、ろくな仕事はまわってきませんよ」
マリアは、前髪をかきあげた。普段は隠れている左眼が現れる。
見事なプラチナブロンド、エメラルドの瞳。
十七歳という若さに似合わない、その疲れ果てた魂。
マリアがはらむその矛盾は、皮肉なことに見る者を魅きつけずにはおかなかった。
時は、『狂乱の二十年代』──。
のちに、「ジャズ・エイジ」と呼ばれるこの時代、家事を捨て、平気で人前でたばこをすい、もぐり酒場で酒を呑み、男遊びもするような女達が現れた。俗に
「フラッパー」と呼ばれた。
それまでのモラルが、先の世界大戦から続く特需景気のおかげで、枷が取れてしまったかのように、アメリカ全体が坂を転がり落ちるように享楽主義へ変貌し
つつあった。
その中で、マリアの潔癖なまでのかたくなさ、視線に宿る危険なきらめきは、一言でいえば、「異質」だった。
毎日パーティーを開いては遊び暮らす白人達。スラムで身の上を呪いながら過ごす移民達。とみに開いてゆく貧富の差。人種間の格差。
そのどれにもあてはまらない。
つまり、アメリカという国にも、ニューヨークという街にも属していなかった。
──ここは、マリアが在るべきところではない。
マリアを眼にする誰もが、そう感じ取るらしかった。
「でも、以前はアニタさんのお店を手伝っていたでしょう?あそこは、どうしたの?」
「……彼女とご主人の店は、この前放火されて、今の店は借金して無理に借りているんです。とても、人を使う余裕なんてありませんよ」
マリアには、あやめの危惧がわかっていた。
今のニューヨーク暗黒街は混乱期にある。ギャング達が「ムーンシャイン」の利権を争い、街には銃声が絶えない。「もぐり酒場の用心棒」などは、真っ先に
巻添えを食らうに違いないのだ。
「お願いだから、自分を傷つけるような事はやめてね。こんな事をいうと、貴女は怒るかもしれないけれど、私で力になれることだったら、言ってちょうだい─
─頼って欲しいのよ、貴女に」
「……ありがとうございます。そう言っていただいて嬉しいですよ」
あやめと、もう一人の友人がいなければ、マリアの心は取り替えしが付かないほどに瓦解していたかもしれない。
だから、さしものマリアも、あやめの言葉を疑うことはない。
ある、一点を除いては───。
* * *
マリアに反論の機会を与えないまま、あやめはドレスを購入してしまい、ホテルの自分の部屋で着替えさせた。タクシーに恥ずかしがるマリアを押し込んで、
メトロポリタン歌劇場に向けさせる。あやめは、一つの劇場の前でタクシーを降りると、臆することなく足を踏みいれた。その後を周囲の視線を気にしながら、
マリアが続く。
演目は「トスカ」。プッチーニが作曲した歌姫の悲劇だ。
マリアは、最近話題になっていると、隣人のアニタから聞いてはいたものの、内容はまったく知らなかった。
舞台上では脱獄、拷問、銃殺と、血生臭さいストーリーと美しいアリアが奏でられていたが、開演と同時にマリアはひそかに寝入ってしまった。
隣であやめが、その頬をつついたり、引っぱったりするのも知らずに。終演後、あやめはパンフレットや脚本を買ってマリアに与えた。
「……あやめさん。こんな物、どうしろとおっしゃるんですか?」
あやめは、いつもの笑みを浮かべたまま、何も答えなかった。
* * *
「禁酒法が出来て何が一番困るかって言うと、やっぱり乾杯が出来ないことよね」
あやめが肩をすくめて笑った。マリアも苦笑して答える。
「こんなところでは、ね」
ウォルドルフ・アストリア・ホテルの最高級グリルが、堂々と法を侵す訳がない。仕方なく、二人は食前酒抜きのディナーをはじめた。
しばらくして、あやめはマリアをつくづくと眺めて、
「似合ってるわよ、そのドレス」
と、満足気に頷いた。
「……」
抵抗むなしく着せられたのは、アイボリーのイブニングドレスで、肩が露になっている。北国育ちのマリアの白い肌に柔らかい色がマッチしていた。
前髪も、ちゃんと瞳が見えるように同系色のカチューシャでまとめられ、首には十八金のロケットペンダントがかけられている。
が、当のマリアにしてみれば、フォークを使うにも肘までの長い手袋が邪魔だし、スカートの裾がふわりと床につきそうで、踏みつけそうで怖いし、「レディ
ーはこんなもの、持ち歩きませんっ!」とエンフィールド銃まで取り上げられてしまい、なんとはなしに、落ち着かない気分だった。
「で。あやめさん。話というのは……?」
ナプキンで口元を拭ってから、気になっていたことを問いかけた。
あやめは困ったように問い返した。
「良い話と、あまり良くない話があるのよ。どちらから、聞きたい?」
「……良くない方から」
こころもち身構えて、マリアは言った。
「そうね……。マリア、この一年間にどのくらいの移民が、アメリカに渡ってきたか、知ってる?」
話がいきなり飛んだ。
「さあ……」
「八十万人よ。一日二千二百人。移民と自由の国アメリカでもさすがに限界のようね。議会は移民排斥法を通すつもりだわ」
「排斥?」
「そう、表向きは年間の受け入れ人数を規定するもののようだけど、実際のところ日本人の為の法ね。中国人は一足先に、三十年も前に数が制限されているし」
「……」
「その締め出された日本人をどこに移民させるか……、日本政府は中国北方に目星をつけているわ。あまり褒められたやり口ではなく、ね」
あやめの危惧は、のちに、「満州国」という形で具現する。
「また、戦争になるかもしれないのですね」
「ええ……。でも、これは直接貴女には関係なかったわね。問題は移民法よ。アメリカ国家が人種差別を承認するのと、同じことになるわ。日本名を持つ貴女
にも、不都合が生じることになるんじゃないかと、ちょっと心配なのよ」
「──構いません」
乾いた返事だった。
「今でも、亡命ロシア人として、良い待遇を受けているとは言えませんし」
「マリア……」
「ここはワンダーランドですからね、何が起こっても驚きませんよ。何しろ私のような革命軍くずれも、ロマノフ王家のクセニア王女も一緒くたに受け入れてし
まえるんですもの」
亡国の王女クセニアは、ニコライ二世の四人の娘達にとって従姉妹に当たる。人種も主義も、今のマリアには必要なかった。
「私はどう転んでもかまいません」
マリアは苦々しく笑った。
「……それなりの覚悟は出来ているつもりですから」
だからこそ。
危険とわかっていても、もぐり酒場に職を求めたのだ。
人に銃口を向けたり向けられたりする、マリアの一番辛い記憶を呼び起こす行為をともなってでも、生き抜いていくと決めたのだ。
知ってか、知らずか、沈黙ののち、あやめはふっと笑って眼を閉じた。
「貴女が決めた事に、私は口出しは出来ないわね。でも、もう一つの私の話も聞いてくれるかしら?」
「───なんでしょう?」
「さっき言った『良いこと』にも関係してくるのだけれど、私と米田中将閣下とで、かねてから打診していた部隊の創設許可が降りたのよ」
「……あの、降魔とかいう、怪物と戦うための部隊ですか?」
「ええ、そうよ」
あやめらがかつて、その怪物達と戦い、かろうじて勝利した、という話は聞いていた。あやめのような人間が、虚言や妄想を語ることはないだろう。だが、マ
リアにとって現実のものとして受け入れがたいのは仕方がない。
「それは……おめでとうございます」
返事がおざなりであるのも、マリアの罪ではない。
あやめは、そんな彼女の心を見透かしたようににっこり笑った。
「うふふっ。他人事じゃないのよ」
「は?」
「米田中将が、私の意見を入れて貴女を呼ぶことに同意して下さったのよ」
「……え?」
「私と、日本へ来ない?」
あやめはマリアを見つめた。
「私と一緒に来れば、ここで形身の狭い思いをして生きていかなくてもよいし、生活だって、少なくとも今よりも数段上のものを提供できるわ」
そこまで言って、あやめは姿勢を正した。
「いいえ。こんな話し方は卑怯ね。私は、貴女に対等な立場での契約を申し出ているんですもの───マリア・タチバナ。帝国華撃団副指令として、正式に依頼
します。貴女の力を、帝都の平和の為に貸していただけないかしら?」
あやめが、両手を揃えて頭を下げる。
「やめてくださいっ……!」
マリアは腰を浮かしかけた。
あやめほどの人物が、自分の腕を買ってくれるのは嬉しい。恩もある。が、それに答えられるほど、自分は上等な人間ではないはずだ。
それに、マリアにはあやめの言葉に素直に頷けない訳があった。
「あやめさん。私は……」
マリアが口を開きかけた時、彼女の背後に立った女性が、突拍子もない声をあげた。
「まあ、ミス・フジエダ! なんて奇遇なのかしら!」
小柄な影が大股にあやめに近づいてゆく。
「ミセス・パリッシュ──!」
あやめが狼狽したように立ち上がった。
「こんなに早く会えるとは思いませんでしたよ、ミス・フジエダ。私ね、今こちらに住んでいるのよ」
ミセス・パリッシュはあやめの頬に接吻を与える。
「ニューオリンズではなく、こちらに来ていただこうと手紙を出したんだけど、どうやら行き違いになったようね」
年の頃は七十に届こうかという、老婦人だ。彼女は笑顔のまま、声を低めた。
「……実は先日、わが家に強盗が押し入ってね───狙いはどうやら、あれ、らしいの」
「何ですって!」
「大丈夫よ。取られた訳じゃないわ。それで独り暮らしは危ないと思って、友人の家に身を寄せているの」
「そうでしたか……」
「ごめんなさいね、心配かけて」
「いいえ、ご無事でなによりでしたわ」
あやめは、ほっと吐息をついた。老婦人は自分の言いたいことを言い終えると、やっとあやめの連れに目を向ける余裕が出来たようだ。
なかば皺に埋もれかかっている青い眼が、マリアに向けられた。
「こちらのかわいらしいお嬢さんを、紹介していただけるかしら?」
「ええ、もちろん───私の大切な友人、マリア・タチバナです」
マリアは差し出された、右手をそっと握った。ミセス・パリッシュはあやめに一つ頷くと、その場を離れた。あやめが後を追いかけ、何事か話しかけている。
やがて、戻ってきたあやめにマリアは尋ねた。
「あやめさんの今回の来訪は、あの女性に会うためですか?」
「あの女性にも会うため、よ」
あやめは微妙な訂正を加えた。
「本当なら、貴女に正式な承諾をもらってから話すつもりだったのだけれど、任務がらみなの。貴女にも手伝ってもらいたかったのだけれど……」
「私で出来ることなら、何でも手伝います」
マリアは意気込んで言った。些細なことでも、彼女の役に立ちたい。
こぼれる様な笑顔をむけて、あやめは礼を言った。マリアが自分の申し出を受け入れてくれる、と信じているようだ、それを見てマリアの胸が少し痛んだ。
「ミセス・パリッシュは未亡人なのよ」
あやめは立ち去った老婦人を眼で追った。
「八年前にご主人を海難事故で失っているの。ご主人はミセス・パリッシュを助けるために、彼女を避難ボートに乗せた後───ご自分は船と共に沈んだそうよ」
* * *
ハーレムのぼろアパートの七階にマリアの部屋がある。
帰りついて、マリアはため息をついた。
窓を開け放して、蒸し風呂のような空気を入れ替える。
月が出ていた。
この街で、唯一親しい友人、アニタが言っていた。アメリカでは満月を「泣いた女の顔」と言うのだ、と。
マリアはそれを、ばかばかしい比喩だと、聞き流した。
だが、不思議なことに、今夜の月は泣いているようだった。
その顔は出会ったばかりのミセス・パリッシュに見えた。
彼女と同じように、おのれのために愛する者を失った人に。
マリアは窓辺に腰掛けて、空を見上げた。
(ロシアでは、月を見上げる余裕なんて、なかったわね──)
マリアは、ベストのポケットからロケットを出した。ドレスには合わないから、とあやめに注意されたのに結局身につけたまま行ってしまった、あの人の形見。
ロケットは月光のもとで、金色に鈍く輝いていた。
マリアは窓を閉じて、月の光を遮った。闇の中で、ベットに身体を投げ出す。
今夜もまた、夢にみてしまうのだろうか?
今は名も、体制も変わってしまった、故郷の夢を。