ACT 10 生きるに時があり

 どんな風に帰りついたのか、覚えていない。
 危ないから私の部屋にいらっしゃい、お医者様にみせなくてはならないわ、そう掻き口説くあやめを振り切って、マリアは三年間住み慣れた部屋に戻ってきた。
 アパートにたどり着くと、ドアの鍵が全て破壊され、わずかに開いたままになっていた。
 こんな荒々しい破壊を行うのは、今となっては一人しか考えられない。
(レオン──)
 だが、部屋の中に気配はない。マリアは無造作にドアを開けた。
内部は惨憺たるものだった。数少ないタンスや引出の中身はぶちまけられ、引きずり出された衣装はぼろぼろに切り裂かれていた。その中にはプレアードに贈ら
れたワンピースもあった。
 マリアはピンク色の残骸を床から拾い上げて、そっと口づけた。
 そして予想していたものを見つけた。
 レオンの置き土産を。
 壁に大きく書かれた「VENDETTA」の血文字。
 それは、「血の復讐」を意味していた。

           *   *   *

 マンハッタン埠頭は、出航間際の「オリエンタル丸」を見送る人でごった返していた。それらに一顧だに与えず、マリアは船室に閉じ籠った。ここ数日、ほと
んど口も開かない状態だった。ホテルのツインルームに彼女を置いたあやめが、何を話しかけようとも、お義理にしか返事をしない。その視線は何を見ようとも
せず、どんな音にも反応しなかった。
 しかし、あやめは手をさし延べはしなかった。
 判っていたのだ。
 マリアが自我を守るために、必死に戦っていることに。
 その結果、マリアが自分の殻に閉じ籠ることになろうとも、自分にはどうすることも出来ないことに。
 マリアが、自身で迷いや痛みと訣別しない限り──。
 出航の銅鑼が響いてきた。
「マリア、甲板にでてみない?」
 あやめが誘う。マリアは促されるままに、青空の下へ出ていった。「オリエンタル丸」はこれからパナマ運河を抜け、太平洋を横断して、日本へと向かう。
 そこに、マリアの新しい「仕事」が待っているはずだった。
 マリアはふっと、天に向かって角突き出している摩天楼を見上げた。
 白い真昼の月が、マンハッタンに寄り添っていた。
 この街の空は、こんなに高かっただろうか。
 おかしなものだ。街を離れる時になって、気付くとは。
 私は本当に、ここで生きていたんだろうか。思い出せなかった。
 そう考えるとおかしくて、不思議に笑いがこみあげてきた。
「マリア……」
 あやめが、変調をきたしている自分を気遣ってくれている事は判っていた。けれど、マリアの心はプレアードの死をどう受け入れるか、考えるので精一杯だった。あやめに答える余裕などなかった。
 でもやっと、その答えを見つけた、とマリアは思った。
 彼が望むであろう方法。それはあまりにも簡単なことだった。
 偽らなくてもいい。誇ればいい。たとえレオンが彼女を許さなくとも。誰にも判ってもらえなくとも。好きだったから、撃ったのだと。
 マリアはずっと、プレアードとは似たもの同士だと思ってきた。貧困にあえぎ、それを打破するために戦い、住む土地を変え、いつか何かが変わることを夢見ていた。
 形も熱意も違うけれど、「あの人」とも似ているのだと、マリアは信じたかった。また誰かの横に並び立てることを、心のどこかで望んでいた。
 けれども、彼は対等な存在を望んではいなかった。彼の範囲内でなければ安心できずにいた。
 それが、プレアードの愛し方だった。仕事もそう、弟レオンもそう、そしてマリアも、マリアの霊力さえ何もかも掌握していたかったのだ。自分の手の内に組み込んでおきたかったのだ。
 どこまでも、相容れない──。
「あやめさん、私もう男の人を信じられないかもしれませんね」
 そういって、マリアは薄く微笑んだ。
「でも、それでいいのかもしれません。もう二度と、こんな思いをしなくて済むのなら」
 愛した人を看取る繰り返しには、もう耐えられない。
(ねえ。私は、好き、だったのよ……?)
 たとえ、貴方にとって何の感慨を抱かせない女だったとしても。
 貴方の最後に関わっただけの、女でも。
(本気だったんだよ……?)
 絶対に届くことのないマリアの「想い」──。
 恋という狂気に関してだけは、トスカは正しかったのかもしれない。
 自分にとって、ただ一つの真理は「好きという自分の心」なのかもしれない。
 相手にとって、ただ一つの真理は「好きという他人の心」なのかもしれない。
 それでも幸せになれるというのなら。
 愚かで、哀れな生き物だ。女というのは。

 月光に照らされた、プレアードの眠るような死に顔。
 でも、プライドの高い貴方は、きっとそんな思い出を私の中に残すことは許さないだろうから。
 だから。
 次第に遠ざかるマンハッタンに、マリアはつぶやいた。
「……忘れてあげる」

 弔鐘のように、蒸気汽船が汽笛を鳴らす。
 私は、もう二度とこの街を訪れることはないだろう。

           *   *   *

 マリアの横顔を黙って見つめていたあやめが、ハンドバックの中から一通の手紙を取り出した。 
「これ、預かってきたわ」
 花の香りの染み込んだ、白い紙面には、たおやかな筆跡でこう書かれていた。

「我が『満ち足りた愛』が再び世に現れし場合には、親愛なる友人、マリア・タチバナに譲渡するものとする。

      1920.8.23  アンジェリーナ・パリッシュ」

「あやめさん、これは……!」
「ミセス・パリッシュはね、本当にあの指輪の価値を知ってくれている人に譲りたいのですって。貴女なら、大切にしてくれると思ったのね」
「本当の、価値?」
「そう──ミセス・パリッシュがあの指輪にこめた『想い』を知ってくれてる人に」
「……」
「ねえ、マリア。月長石にはもうひとつ、宝石言葉があるの」
「え?」
 あやめがマリアの髪を撫でた。
 初めて会ったときと同じように。
「──『恋の予感』。」
 ふふっ、とあやめは謎めいた笑みを浮かべる。
「貴女のものに、なるといいわね」

           *   *   *

「ところで、マリア?」
 船室に戻る途中、あやめが不意に切り出した。
「はい?」
「まだ感想を訊いていなかったのだけど、『トスカ』はどうだったかしら?」
「……え?」
「今、建設中の大帝国劇場が出来るのは来年だけど、お稽古はすぐ始めた方がいいと思うの。こけら落としに『トスカ』なんて華麗でいいと思わない?」
「な、なんの事ですかっ?」
「……言ってなかったかしら?『帝国華撃団』はね、『帝国歌劇団』として、歌やお芝居の舞台も勤めることになってるの。これも重要なお仕事で、帝都の
地脈の霊気を高めるという……、早い話が貴女にも女優になって貰おうということなんだけれど?」
「──! 聞いてませんッ!!」
「だって、貴女、霊力を破壊以外に使いたいようなことを言ってたから」
「だからって、じょ、女優なんて、出来る訳っ……」
「大丈夫よ。マリア美人だから」
「そういう問題じゃありません!」
「あら。マリアには素質があると思うんだけど。やってみると、楽しいわよ。きれいな衣装も着られるし、ねえ?」
 あやめは突然マリアの背後に向かって呼びかけた。
「そうね。でも女優になるんだったら、その鉄面皮、何とかなさい」
 マリアは振り返り、そこに仁王立ちになっている女性を認めて呆然となった。
「ア、アニタ!? 貴女、何故ここにいるの?」
「あーら、ずいぶんとご挨拶じゃない。せっかく新しく出した私達の店をメチャクチャにしてくださったのは、どこのどなた? もうマンハッタンで私達に貸してくれる不動産屋なんていないわよ」 
「そりゃ、そうだろうけど……。でもこれ、日本行きの船よ?」
「そう、ヨコハマへ行くのよね? ミス・フジエダに誘っていただいた事もあるし、私とヴィクで、ヨコハマで店を開く事にしたのよッ!」
「何ですって!?」
 マリアは目眩を覚えた。そんなマリアの様子に頓着せず、アニタは嬉々として構想を語り始めた。
「もう考えてあるのよ。ヨコハマって日本人以外がたくさん住んでいるんでしょう? ──異国で人恋しくなった貴女に、アメリカの香りを運ぶカフェ──
どう? 客が来そうじゃない?」 
 マリアは返す言葉を失った。
 アニタのバイタリティに呆れながらも、胸が熱くなった。
 この友を失わずに済んだ。
 戦い以外の場で知り合い、心を許せた友を。
 マリアは首にかけたペンダントを強く握り締めた。
 今までも、これからも、マリアの支えになるだろう、思い出。
 プレアードに貰ったものは、何一つ持っていない。
 だが、それもいい。忘れると決めたのだから。
 マリアは、ロケットの中の人物に語りかけた。
(ご心配、かけました。でも、私はまだ、生きていけそうです)
(私には、まだ繋ぎ止めてくれる人達がいますから──)
 ロシア、マンハッタンと遍歴を重ねたマリアが唯一日本に持って行く物。
 これは、また浮わついた想いに囚われないための枷。
 そして、弱さ。
(隊長──私、今度は見失わないようにします、貴方の言葉)

*   *   *

 今一度、汽笛がなる。
「オリエンタル丸」が横浜にたどり着くのは、三週間後。
(きっとどこかで、貴女を想ってくれている人がいるはずですよ。この同じ月の下でね──)
 歳老いた、いま一人の友人の言葉を、彼女が思い出したかどうか。
 見知らぬ国の月の下に、誰がいるのか、マリアはまだ知らない。

-了-


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