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また、この街に戻ってくるとは思わなかった。
春だというのに、底冷えのするマンハッタン島。五番街のショーウィンドウに姿を映して、マリアはコートの襟元を直した。住んでいた頃は一度も足を踏み入れることのなかったきらびやかな通り。二度と訪れることはあるまいと悲壮な決意で離れた街。そこを、何の気負いもなく歩いている自分の姿に、マリアは微苦笑を洩らした。
帰るべき場所があるというのは、こんなにも人を変えるものなのか───。
一年ぶりに会えた愛しい人が、今は帝都で彼女を待っている。
任務で離れるマリアを、行かせまいと抱き締める、その声の震え。耳朶にかかる熱い吐息。
マリアの「現在」は、既にここではなく、帝都東京にあった。
五年の歳月は、ニューヨークに佇むマリアを、「異邦人」から「訪問者」に変えていた。
「おや、マリア君。今日もショッピングかい」
宿泊先のプラザホテルに戻ると、ラウンジで数人の男達がコーヒーを飲んでいた。その中の一人がマリアに声をかける。
「花小路伯爵。申し訳ありません、遅くなりまして」
「いや、構わんよ。どうせ、会議の為に足留めだ。このホテルの中から出ることはあり得んからな。君もゆっくりしなさい」
「そうはいきません。私は貴方の護衛を仰せつかっているのですから。次からは気をつけます」
「女の子の愉しみを邪魔するほど、野暮ではないつもりだよ。で、何を買ってきたんだね?」
マリアにも座るよう促して、花小路が問うた。
「・・・いえ、何も」
「何も?」
マリアが手ぶらであることを示すと、男達は意外そうな表情を見せた。
「ウチの女房なんぞ、両手いっぱいに荷物を抱えて帰ってくるよ。服だの帽子だの」
そういって鼻を鳴らしたのは、たしかノルウェーから来た学者だ。
「・・・マリア君。今回は私が無理を言って君に同行してもらった。その礼といってはなんだが、私の方から払わせてもらって───」
マリアは慌てて手を振った。
「いいえ! 花小路伯、そういうことではないんです。欲しいと思うような物がなかったんです。本当です」
「いや、しかし・・・」
「しかし、貴女のようなお嬢さんに欲しいと思えるような物がない、というのも一大事ですな。我が国はもう少し豊かだと思っていたがね」
賢人機関のアメリカ支部長が、肩をすくめた。
「できれば、貴女の想い出になるような品を、見つけて差し上げられると良いのだが」
マリアがかつてニューヨークに住んでいたことを知らないその男は、本気で残念がっていた。
「そうだとも。また明日にでも出かけてくるといい」
父親のような年齢の男達から口々に勧められて、マリアは仕方なく曖昧に頷いていた。
自室に引き取ったマリアは、窓から街を見下ろしていた。
いかに勧められようと、マリアは買い物などする気はなかった。
観光記念でもあるまいし、想い出など必要無い。
ロシアでの過去同様、このアメリカでのことも、忘れよう忘れようとしてきたのではなかったか。
マリアは無意識の内に喉元を探った。
(そうか───)
身に付けていた金のロケットは、ずっと前にあの人の墓に置いてきたのだった。
お守りのようでもあり、枷でもあったペンダント。
たった一つの想い出を、マリアはみずから手放したのだ。
過去なんていらない。無性に帝劇が恋しくなった。
その時かすかなコール音が聞こえてきた。
出掛けに紅蘭から渡されていたキネマトロンだ。マリアは飛びついた。
「はい、こちらマリア・タチバナ」
「・・・マリア?」
ノイズ混じりに聞こえる声は、彼女が切望してやまないものだった。
「・・・隊長」
身体中の力が抜け、思わずベットに膝をついた。
「どうした!? 何かあったのかい?」
「いいえ───いいえ、なんでもありません」
ただのホームシックです、と言いかけて、そうだったのかと初めて納得した。
一日でも早く、この人の元へ帰りたい。
過去がいらないのではなかった。ただ、想いが未来に飛んでいただけのことだ。
乱れた画像の向こうの人は、相変わらず自分の悩みをよそにマリアの心配ばかりしている。その強さに、彼女も甘えてはいられなくなる。
「───隊長の顔が見れただけで充分です」
そういって晴れやかに笑うことが出来た。
翌日、マリアは宝石店で小さなペンダントを買い求めた。
わざわざ以前もっていた物と似たような、シンプルな造りの十八金のロケットを探し出したのだ。
あの頃は、たった一つの「過去」しか持っていなかった。
今はマリア自身が「現在」と「未来」を手に入れている。
今度の、これは証───。
人を愛し、生きてゆけることの証になる。
ロケットを前に、マリアは改めて考え込んでいる。
「・・・写真、どうやって手にいれようかしら」
帰国の日が迫っている。悩む時間はあとわずかしかない───。
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