愛しい人

十一月に入り、帝都は雨が続いた。紅葉を急ぐ秋を嘲笑うように、急激に冷え込みつつある。
「今日中に報告にいらっしゃいね」
くどいほど副指令に念をおされたにもかかわらず、もう日付は十二日になろうというところ。
あの人は笑顔の裏が怖いんだよな、とひとりごちて加山はコートの襟を立てて大帝国劇場へと急いだ。

部屋の中に明かりが灯っているのは窓の外から確認した。
この時間ならば、まだ書類をまとめたり、本を読んだり──時々、アルコールを嗜んでいることもあるが──起きているのが常とわかってもいた。
しかし、加山のノックに応える声はなく、いぶかしく思いながらノブを回すと、咎められることもなく扉は開いた。

普段とは違う、少し甘たるい香り。
テーブルに用意されたティーセットと小さなブーケ。
仕事中は乱雑なはずの机の上はきちんと片付けられていたが、部屋の主の姿は見えなかった。

「副指令……?」

衝立の奥に回ると、規則正しい寝息をたててかえでが眠っていた。服は昼間のまま、足は床に投げ出したまま、わずかな時間に横になって、つい眠りの底に落ちてしまったものか。
栗色の髪がしどけなく頬にかかっていた。
加山は指を伸ばして、眠る女の髪をそっと梳いた。
「ん……」
気配には敏感なはずなのに目覚める様子もない。

加山が巴里から帰って来て二十日あまり。加山と大神の抜けた穴は存外大きかったらしく、かえでは多忙を極めていた。疲れた様子を見せる人ではないので、つい見過ごしていたが、かなりやつれているようだ。化粧でごまかしていたのだろうか。気づけなかった自分が情けない。
懐に入れていた報告書を机の上におき、彼女をきちんと寝かせてから毛布をかけてやる。
だが立ち去りがたくベットの脇に腰掛けて、しばらくの間、無防備な寝顔を見つめ続けた。

「巴里の女の子なんかと浮気したら許さないわよ」

渡欧する直前、若干頬を赤らめた様子で言い渡された時には、正直驚いた。
それまでの彼女は、理知的な態度をくずしたことなどなかった。悋気のかけらも見せたことがなかった。
女の独占欲など鬱陶しいばかりと思っていたが、相手が惚れた女だと、嫉妬もまた可愛いらしく見えるから現金なものだ。
高揚した気分のまま帝都と巴里を往復し、彼女の誕生日にかろうじて間に合った、までは良かったのだが。
戻って来た加山を迎え入れたかえでは、泣いているように見えた。
訳の判らない駄々をこね、すがりついて来た指が冷たくて。
何かを云いかけて、それを呑み込むようにきつく閉じられた瞳が加山をなじっているようで。
結局、朝まで抱き締めているしか出来なかった。

「……加山くん」
かえでの寝顔を眺めながらつらつら考えていると、彼女は身じろぎしてやがて眼を開けた。
「起こしてしまいましたか」
「ん、いま、何時?」
「二時近いです。もうお休みになられた方が」
「二時ですって!?」
飛び起きようとしたかえでの足許がふらついた。慌てて抱きとめると、恨めしそうに加山を見上げる。
「絶対、今日中にって云ったのに」
そんなに急を要する報告だったろうかと内心いぶかしく思ったが、逆らわずにおく。
「すみませんでした。部下達との連絡に少し手間取りまして」
「そうじゃないの」
かえでは怒るそぶりもなく、
「座って」
かえではティーセットの前に、むりやり加山を座らせると「ちょっと待っててね」と言いおいて部屋を出て行った。
予想外のことに反応できず、加山はただ呆然とその背中を見送った。

しばらく経って戻って来たかえでは、両手に白い箱を抱えていた。
それをテーブルの上におくと今度は手際よく紅茶をいれはじめる。
「いや、別に自分は……」
飲食する気分じゃないんですが、と云いかけたが軽く睨まれたので、これまた黙っておくことにする。
いったい何なんだ、という気がしないでもない。
良く見ると、取れていたはずの口紅が付け直してある。真夜中に軽く化粧を直して、お茶会の用意をするかえで。
こんな突拍子のなさまで可愛い、と思うには疑問が勝り過ぎていた。
「ね、加山くん。開けて見てくれる?」
しかめ面の加山にはお構いなしに、かえでは白い箱を指した。こんな時、真っ向から尋ねても絶対に教えてくれないのが藤枝かえでという人だ。諦めて指示に従った。

ぱかり、と蓋を取ると中に鎮座ましましていたのは、加山の両手ほどの大きさのケーキだった。
「ですから自分は」
夜中に甘いものは、と苦々しくケーキを覗き込んで、片眉をあげた。
真っ白なクリームでくるみ込まれた、シンプルなケーキ。その表面には、チョコレートで文字が刻まれていた。

HAPPY BIRTHDAY!!

「日付、変わっちゃったんだけど」
「かえでさん、が?」
「だから、十一日の内に来てねって云ったのに」
照れ隠しなのか、拗ねた声を出す。そんな甘えも二人だけの時には見せることも、最近判って来た。
「罰として、不味くても残さないこと」
「──了解しました、副司令」
敬礼を返す。いやあね、本当に不味くても知らないから、とかえでが笑った。
ケーキの味は、まあまあ、といったところ。だが、加山は一口一口、惜しむように食べた。

紅茶を飲みながら加山がケーキを平らげていくのを見守っていたかえでは、急に剣呑な声を出した。
「そういえば」
「今度は、なんです」
「加山くん。私の寝顔、見てたわね」
「ええ。可愛かったですよ」
「もうっ──女の寝顔を見るもんじゃないって、以前云ったでしょう」
「いつの話ですか。もう御破算ですよ」
子供のように頬を膨らませるかえでを軽くいなして、加山は云った。
「だって、こうなる前の話でしょう」
素早く肩を抱くと、唇を奪う。かえでが硬直したのが判った。
こういう初々しい反応も良いな。
加山は腰を引き寄せると、よりいっそう深くくちづけた。生クリームの甘さが舌の上でほどける。かえでの身体から力が抜けたところで唇を離した。
真っ赤になって俯く彼女に、あえてそれ以上云わずにおいた。

無言のまま紅茶を飲み干して部屋を出ようとすると、加山の背中に静かにかえでが声をかけた。
「加山くん。こっち向いて」
振り向くと、晴れやかに彼女は笑っていった。
「お誕生日おめでとう──これが云いたかったのよ」
かないませんね、と頭をかいて、もう一度頬にキスを落とした。
「ごちそうさまでした。ケーキ、なかなかでしたよ」
「また今度作ってあげるわよ」
「ウェディングケーキでもいいんですが」
「……ばか」
つん、と額をつつかれて加山は送りだされた。
月はまだ中空にあり、銀座を包む空気は厳しさをいっそう増していた。
もう少し愛しい夢に酔っておくか、と弾むような足取りで加山は劇場を後にした。



「プレゼントはわ・た・し」的なSSをやらなくて良かった(←やりかけた)暴走が止まりません。
今回のタイトルとモチーフは宇都宮隆の「愛しい人」「precious」から。私の中の加山→かえでsongです。