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夕立ちがやむと、大帝国劇場の中にも涼しい風が吹き込み始めた。
みるとはなしに、中庭の緑に跳ね返る雫を見ていたカンナだったが、蝉の声が
戻ったのを契機に、舞台へと続く階段を下り始めた。
「あら、どうしたの? カンナ」
袖から舞台を見守っていたマリアが、声をかけてきた。
「ん? どうもしないぜ」
「そう。なんだか、すっきりしない顔、してるわよ」
「そ、そっか? あはは、ダメだなあ」
「ダメ、だなんて、言ってないでしょ?」
マリアは訝しげに眉を寄せた。
「そ、そうだな。やっぱ、アタイ、どうかしてる・・・」
引きつった笑みを浮かべて、カンナは逃げるように中庭へ踏み出した。
熱を持った地面に、雨はまたたくまに吸い込まれてゆく。つやつやと生気を取
り戻した葉から、ぴしゃんと水滴が落ちた。
「もう、夏なんだなあ・・・」
大帝国劇場から、藤枝あやめの姿がなくなって、二か月ばかりがすぎた。
帝劇に新人が入ることになり、彼女の部屋は整理されることになった。花組や
事務のかすみ達も一人一人があやめの道具を分けてもらえることになったが、カ
ンナは物色する彼女立ちの間で途方にくれることになった。
「花瓶ったってなあ・・・」
「さっき、すみれが持ってっちゃったよ?」
「机・・・、うーん」
「カンナ、おべんきょーなんて、しないでしょー?」
「服は・・・」
「ちっちゃすぎるよ」
「アイリス。いちいち突っ込まないでくれるか」
「ちぇーっ。せっかくお返事してあげてたのに」
早々に姿見をゲットしていたアイリスは、興味深げにカンナの行動を注視して
いた。
「ねえねえ、カンナ。アイリス、たんすがいいと思うよー」
「箪笥ぅ!?」
カンナはあきれて大声を上げた。何事かと皆の視線が二人に集まる。
「だあって、タンスお部屋にもってけるのって、カンナくらいだもの」
とてもいい解決法を思いついた、と満面の笑みを浮かべるアイリスに、カンナ
は苦笑を浮かべるしかなかった。
「アタイって、それしかないのかよ・・・」
そこで大神が手をぽんと打って言った。
「じゃ、こう考えたらどうだろう。この箪笥一杯になるくらい、いろんな服を
揃えてみるってのはどう? 稽古着ばかりじゃなくて、可愛い服をさ。いい機会
じゃないか。カンナもお洒落してみるべきだよ」
「おにいちゃん、あったまいい!」
「さすが、隊長。いいフォローですね」
「はは、そ、そうかい? 隊長がそう言うんだったら、箪笥でもいいかな・・・」
カンナがこころもち顔を赤らめる。
「わお! 見て見て! あやめさんの下着ってば、舶来物よー」
その時、タンスを漁っていた由里が、一同の輪の中にわざわざ持ってきた下着
を広げた。
「ゆ、由里くん・・・」
「あれ? 大神さんてば、なに下向いてるんですかあ? ほれほれ」
「由里くん、聖魔城の一件以来、俺に辛くあたってないか?」
「べぇぇぇぇぇぇぇーつにぃぃぃぃぃぃぃぃー?」
「由里、およしなさい」
かすみが、やんわりとたしなめた。
「私達は、あやめさんの着物をいただきますね。三人で分けますから」
「下着は残念だけど、もらえないわよねー」
「あはっ、あたしこんな大人っぽい着物、初めてですぅ」
おっとり、ちゃっかり、しっかりの三人娘が顔をほころばせる。
「あと残ったのは、文机ですか?」
「ああ。これはさくらくんにもらってもらおう」
来客があった為に、あやめの部屋に来ていないさくらに文机を残して、分けた
遺品を運び出してしまうと、部屋の中は殺風景なものとなった。
「全然ちがうおへやみたい・・・」
アイリスがジャンポールを抱きしめながらつぶやいた。
「あやめお姉ちゃん、かえって来ないかな。アイリス、寂しいのはヤダよ」
「・・・そうだな」
カンナはアイリスの髪をくしゃっと撫でて、そう答えた。
夏休み特別公演の稽古は(一部を除いて)順調にスタートした。
第一幕の第一場、さっそく独唱の練習に上がっているのはカンナだ。
この夏公演を一番楽しみにしていたのは、実はカンナだったかもしれない。一
連の黒之巣会、サタンらが引き起こした災害は、まだまだ帝都に影を落としてい
る。一般庶民には演劇など見る余裕はない。校舎すら消失した地区もあり、子供
達にとって何一つ楽しみと呼べるものが残っていなかった。そんな中、米田の英
断で子供達には無料で上演されることになったからだ。
「海賊」という敵役とはいえ、海が舞台とあれば、張り切らざるを得ない。
すみれ扮する王女オルミアをさらって来る場面など、あまりにも嬉々として演
じてしまい、新顔の演出家、長谷一也に、
「ウォータス、人をさらう時まで嬉しそうな顔をしない!」
と説教までされた。
ちなみに「ウォータス」というのが、カンナの役名。子供向けの冒険物なので、 根っからの悪人ではない。その分、憎まれ役は特別出演の米田扮する宰相ラキエに
なっている。
まずは各場面ごとに本合わせ、それから舞台での立ち稽古である。まだセット
が組まれていない状態なので、チョークで「甲板」「岩」などと描かれた位置を
セットに見立てて動く。
そして六月公演の「花や散るらん」の平宗盛(たいらのむねもり)役以来の独
唱が、カンナにも与えられていた。『イカリを揚げよう』。アウターリア王国の
王女、オルミアをさらった後の凱歌だ。
『たどれ、カモメの道しるべ つかめ、陽気な南風
ハートのレンズでさがそうよ いつか見た夢を
素晴しい世界がきっと待ってる 一人ぼっちでも僕らはパイレーツ
誰も届かない七つの海へ イカリを揚げよう』
「でも、すぐマリア達に奪い返されるんだよな」
「そうだよ、アイリスのアヤラと、紅蘭がやるリーンが、すーぐカンナに勝っちゃ
うんだもんね!」」
「その後、第三幕まで出番がねえのか。楽なんだか、損なんだか判らないねえ」
カンナがそういって苦笑して見せた。それもそのはずで、長谷のやり方という
のが、各場ごとに完成形をつくりあげてから、次の場面に移るので、途中出番の
ないカンナは、当分の間、自主練習しかない訳だ。
「アタイ、メシ食ってくる」
客席で隣り合って舞台を見ていたさくらにことわって、カンナは食堂に向かっ
た。舞台では、マリアの独唱での動きが細かいチェックを受けている。
食堂には先客がいた。野際龍平。新顔のもう一人、脚本家である。確か、この
「海と空のあいだ」がデビュー作だと聞いた。
「あれ? また来てたのかい?」
「ご挨拶ですねえ。いいじゃないですか、こんな僕でもお役に立つことあるかも
しれないでしょ?」
「ヒマだねえ」
「あはは。それに、ここの『帝劇ランチ』いけるんですよ。くせになっちゃいま
した」
「まあ、そこだけはアタイも同感だね」
カンナは野際と向かい合って腰を下ろした。野際は番茶をすすりながら、背中
を丸めている。歳の割には、爺くさい。着ているものも、そこいらのバンカラ学
生が授業を抜け出て来たような、着物に下駄。とても、銀座を歩く格好には見え
ない。外見にはまったく頓着しない男のようだ。
もっともカンナも、男を服装で判断するような悪癖は持ち合わせていなかった
から、結構、この脚本家とは気安く口を聞いている。
その野際が妙に居ずまいなど正してカンナに向き直った。
「カンナさんは、ずっと男役なんですか?」
「あのな、アタイの身長で娘役なんか出来ると思うか?」
「思うから訊いてるんですよ」
「実際、マリアが今回、女役で驚いたもんな。あいつだって、結構気にしてんだ
ぜ? 身長」
「あ、羨ましいんですか?」
カンナは口にいれたばかりのトマトを噴き出した。
「お、お前! どうして、そーゆー話になるんだよ!」
「あ、いえ。女の子の役がやりたいなら、そういう脚本を書いてみようかな、と・・
・」
「いらねえよ! どうせ似合わねえし」
「そんなこと、ないと思いますよ。カンナさん、彫りが深いし、プロポーション
がいいから舞台映えするって、この前、大神さんと話してたんですよ」
「───隊・・・、大神さんと?」
「ええ」
「へえ・・・」
「あれ? どうしたんですか、嬉しそうな顔しちゃって」
「うるせえな。メシ黙って食えよ」
「食べ終わっちゃったんですが・・・」
「黙って茶を飲め」
「はい」
言われた通り黙々と茶をすすっていた野際だが、耐え兼ねたようにまた口を開
く。どうやら相当のしゃべり好きのようだ。
「あのー。カンナさんはどうして帝国歌劇団に入ったんですか?」
「それはな、お前。あやめさんが」
箸で野際を指しつつ答えようとしたカンナの動きが止まる。あやめのことに触
れると、当然帝撃にも触れねばならないからだ。
「んーと。以前ここには藤枝あやめさんという人がいてな。その人がやってみろ
というからやってみた。以上」
非常に曖昧かつ簡潔に説明を終える。何故だかわからないが、相手はそれで納
得したようだ。
「人事の方ですか?」
「ま、まあ、そんなもんだ」
「僕、お会いしたことないんですが」
「もう、ここにゃいねーよ───春にいろいろあってさ・・・。亡くなったんだ、
あやめさん」
半分に切ったゆで卵を、箸でぐさりと刺す。
「いい人だったんだぜ。アタイみたいなズブの素人にいろんな演劇の勉強させて
くれてさ。最初花組はアタイとマリアだけだったんだけど、アタイは堪え性がな
いからな。しょっちゅう投げ出しかけてあやめさんを困らせてた。でもずっと面
倒みてくれて・・・」
「お好きだったんですね、その人のこと」
「───アタイだけじゃないさ。花組のみんな、大神さんも、事務の連中も、あ
やめさんを慕ってた。皆で分けて取ってあるんだ、あやめさんの形見」
「へえ、カンナさんは何を?」
「・・・桐箪笥」
「素敵じゃないですか」
「・・・お前、本心から言ってっか?」
「勿論ですとも」
そういえば、出会いも、夏の夕暮れだった。
走り込みの途中でスコールに降られた。雨中を走って家まで戻ったカンナは、
自宅の前にたたずんでいた藤枝あやめを見つけた。
「どちらさん?」
雨に濡れたままのカンナに、あやめは微笑んでハンカチを差し出した。
「その前に、これでお拭きなさい。女の子が身体を冷やしちゃいけないわ」
女の子。
カンナは、しばし呆然とあやめを見下ろしていた。
日に焼けてぼろぼろになった鼻の頭に、パサついて、はねかえった髪、荒れた
掌には数日前にざっくりやった傷が生々しく残っている。そしてどうしようもな
い、大柄な身体。
あやめが本気でそう言っているのは、眼を見ればわかった。カンナは羞恥で顔
を染めた。
「や、やめてくれよ。そんな柄じゃないんだ」
家の中に通したその女性がが帝国陸軍の軍人であることもカンナを驚かせた。
「女には向かない職業」。女であることを捨てて、肩肘張って生きていてもおか
しくない状況にあって、たおやかさを崩さずにいられるとは信じ難かった。
桐島流の奥義を得るためならば、女であることを捨てても構わない。
そんな思い込みが、この時ばかりは恥ずかしかった。
「貴女が必要なの」
藤枝あやめは、カンナをまっすぐに見つめて言った。帝撃の事情も、少女歌劇
を隠蓑とすることも、包み隠さずあやめは語った。
桐島カンナとしても、桐島流第28代の継承者としても、これほど切実に望ま
れたことはなかった。
だから差し出された手を取った。
そう、『あの時』と同じように。
自室に戻ったカンナは、観葉植物を押し退けて窓際の主となった箪笥をすっと
指でなぞった。
(でもさ、あやめさん)
カンナは眼をつむった。
「女物の服を着たって、娘役をやったって、きっとアタイは変わりゃしないよな」
窓の外では青空のまま、細い雨が降り出していた。
「海と空のあいだ」の稽古が始まって数日───。
米田が、長谷と、野際を招いて夕食会を提案した。花組と、早く馴染めるよう
にとの配慮だった。
もっとも、米田と長谷は古い友人同士で、食事時からすでに酒を酌み交わして
いた。米田の真意がそこにあったのはいうまでもない。
つぶれた男性二人を宿直室に寝かしつけると、サロンでかしましい宴会が始まった。
カンナや紅蘭が持ち込んだ酒瓶が次々と空になり、酒にはまったく弱いすみ
れがすでに高笑いを始めた。
大神は窮屈そうに右往左往し、野際はといえば、飲む前と変わらないぬぼーっ
とした表情で、マイペースで楽しんでいるようだ。
「こらあ、つーばーきッ! 待ちなさいよお!」
眼の座った由里が椿をおいかけだす。
「あんた、あたしのグラス取ったでしょう!」
「ひーん、さくらさんが飲まないと、荒鷹でやっつけるって言うんですもーん!」
「言い訳なんかききたくないわっ。おしおきよー!」
「あらあら、始まっちゃいましたね」
サロンのなかを飛び回る二人を尻目に、のほほんとかすみが猪口を飲み干す。
彼女の方はマリアとさしつさされつ熱燗をひっかけて、だいぶ顔が赤くなって
いる。
「いつもなんですよ、あの二人。すぐにバテて寝ちゃいますから、放っときましょ
う」
「いつも、ああなの・・・」
向かい合わせに座ったマリアが首を振る。
ソファーの上でとうとう椿を捕まえた由里は、おしりぺんぺんの真似事をして、
大神に嫌がられている。
珍しく上機嫌のさくらが剣舞を披露すると言い出して、荒鷹を抜こうとするの
を、紅蘭が必死でとめた。どうやら、さくらも出来上がってしまったらしい。
「カンナー、お酌してあげる!」
アイリスの笑い声に、「おお、さんきゅ」とカンナが振り向くと、そこにはジャ
ンポールが一升瓶を抱えて礼儀正しく正座していた。
「おいおい、野際さんに見られたらまずいぜ?」
「だいじょぶだよ、野際のおにいちゃん、よっぱっちゃってるもん。さっき、ジャ
ンポールがお酌してあげたら、お礼いってたよ!」
「あ・・・、そう」
「はい、おひとつどーぞ」
「あ、これはご丁寧に」
思わずジャンポールに頭を下げるカンナだった。
その内にとうとう由里の横暴に耐え切れなくなったのか、椿がサロンの外へ逃
げ出した。
「待てえい、椿ー!」
見逃す由里ではない。椿はあやめの部屋に逃げ込み、立て篭ってしまった。由
里が扉を叩いて叫ぶ。
「無駄な抵抗はやめて出てきなさーい。お父さん、お母さんは泣いているぞー!」
「だあっ、なんてベタな呼びかけをしてるんだか」
見かねたカンナが由里側に参戦する。
「アタイが開けてやるぜ」
ドアノブに手をかけて思いきり引くが、うんともすんともしない。耳をつけて
中を伺うと、すうすうと寝息が聞こえる。
「ダメだ、椿のやつ、鍵かけて眠っちまってる。飲んだ後に走ったから、まわっ
たんだろーよ」
「なにい、つまらん奴だ。よし、験直しに飲みなおそっと」
とっととサロンに戻って行く由里。その背中にカンナはそっとつぶやいた。
「・・・おめえ、酒ぐせ悪いんじゃねえか?」
サロンに帰ると、新しい酒の封が切られ、野際に饗されていた。テーブルの上
では、アイリスとすみれが踊っている。紅蘭は部屋の隅で大神を捕まえ、なにや
ら発明の講釈を一方的に進めている。かすみの曲芸飲みに、さくらが盛大な拍手
をおくっている。既に無法地帯と化していた。
「ここが一番まともな宴会って気がするな」
カンナは、マリアと野際の間に陣取った。実をいうと、そこは酒量がまともで
はなかったのだが、彼女は気がつかない。
「あ、カンナさんも一杯どうです? いやー、美女に囲まれて、酒を飲む。殷の
紂王もかくやというとこですねっ」
ひょいひょいと杯を重ねる。
「野際さん、少しペースが早くありませんか?」
諌めるように、マリアが口を挟む。
「もうなくなっちゃったわよ・・・、カンナ秘蔵の泡盛」
「なにぃ!?」
思わず詰め寄るカンナに、野際は、ふにゃ?という返事を返した。
<歌詞引用>「イカリを揚げよう」 作詞:土佐信道
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