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夏はいつも、幻を連れてくる。
彼方に、水辺の幻を。
人はいつか、そこにたどり着きたいと願い、ひたすらに追ってゆくのだろうか?
そう、まるで浄土をでも、求めるように───。
「ふう・・・、暑いですこと」
日傘を傾けて、空を仰ぎ見る。炎熱の太陽はいまだ天高くあり、すみれはガー
ゼのハンカチで額を拭った。おろしたての絽の着物が、汗で肌にはりつく。
顔をあげると、坂の上からはゆらゆらと熱気が立ち昇っている。
すみれは手近な甘味処に入り、かき氷を注文した。
普段、カンナやさくらが「氷、氷」と騒ぐのを、下賎な食べ物と取り合わない
彼女だが、実は隠れて食したりしている。知っているのは、かすみと、代金を払
わされたことのある大神くらいのものである。
すみれの香りをたきしめた扇子であおぎながら、ふと隣で広げられた新聞の小
さな記事に眼をやる。そこには、帝国歌劇団の話題が載っていた。
「───ぬぁんですってぇ!」
すみれは見ず知らずの他人から、新聞を奪い取った。
「ちょ、ちょっと、アンタ」
「何で、なんで、わたくしを差し置いて、さっくらさんがエトワールなんです
のっ!」
エトワールとは、少女歌劇の「歌姫」に与えられる称号である。関西で人気を
博している「宝塚歌劇団」から始まったもので、規定の役職名ではない。いうな
れば、ファンの人気度によって、たいがいは暗黙の了解のうちに決められるもの
である。
記事によれば、さくらが娘役として主役を演じた二月の「マイフェアレディ」、
六月の「花や散るらん」での独唱が、好評につき、ということであった。
「こ、これは、侮辱ですわっ!」
新聞紙を握りながら、すみれはわなわなと震えた。
差し出された氷あずきをぱくつきながら、考えを巡らす。
折りから、夏の特別公演の稽古が始まったところだ。夏休みで子供が多くやっ
てくることもあって、「冒険」と「友情」を主題にしたミュージカル「海と空の
あいだ」だ。
すみれは、王国を守るためにみずからも戦う勇敢な王女オルミアという役だっ
た。もう全編が見せ場といっても過言ではない。
「帝劇のトップスターは、わたくし、神崎すみれですわっ。あんなぽっと出の田
舎娘などの後塵を拝してたまるものですか!」
氷あずきを最後のひとすくいまで胃の中にさらいこむと、すみれは決然と立ち
上がった。
「見てらっしゃい!真のスターの実力がいかばかりのものか、帝都中の皆様に教
えてさしあげましょう!」
財閥に生まれ、活動写真の花形女優を母に持つすみれは、幼い頃から芸ごとに
関してはきちんと躾られていた。立ち居振る舞い一つとっても、無意識に表われ
る優雅さはなかなか真似出来るものではない。
マリアやさくらが「素質」の面で抜きん出ていたところで、その差は一朝一夕
に埋るものではなかった。
役の性格はともかく、貴族などの地位の高い役柄がすみれに廻って来るのは、
そのためだった。
帝劇に返り突いたすみれは、さっそく部屋に閉じ籠った。
「天才、神崎すみれに地道な努力など似合いませんことよ」とばかりに放って
おかれた台本が初めて開かれた。
「すみれ? 何やってるの。新人さんがくるのよ。皆もう、サロンに集まってる
わ」
マリアが、すみれの部屋のドアをノックする。応答はなかった。
「すみれ? 開けるわよ?」
室内は、小さなサイドランプ一つだけで、陽が沈んだばかりの名残のオレンジ
色が、窓ガラスの向こう側を染めていた。
すみれは、ランプの元で台本に没頭していた。
「すみれ!」
「きゃっ! まあ、マリアさん」
「まあ、マリアさん、じゃないでしょ? ノックしても気付かないなんて・・・」
「あ、あら、そうでしたの? ほほほ、ごめんあそばせ、わたくしとしたこと
が・・・」
「サロンに集合よ」
「只今、参りますわ。・・・あの、マリアさん。一つお願いがあるんですの」
椅子から立ち上がったすみれが、頬を染めながら言った。
「わたくしを、ちょっと抱き上げてくださらないこと?」
マリアが怪訝そうに問い返した。 「どうして? いきなり何を言い出すの!?」
「そこをなんとか。わたくしの体重を計っていただきたいんですの」
「体重? そんな物は更衣室に体重計があるじゃないの」
「数字ではありませんの───今度の舞台にマリアさんと並んで立った時に、
鈍重に見えるようではいけませんもの。さらわれた王女が、抱きかかえられた時
にずっしり見えたら、シャレになりませんわ」
「そ、そりゃ、そうだけど・・・」
「ですから、ね。ちょちょいと・・・」
「うーん、仕方ないわねえ」
マリアはため息一つついて、すみれを持ち上げる。
「───さくらよりは、ちょっと負担がかかるわね・・・。すみれは上背がある
し」
「背丈は縮める訳には参りませんわね・・・。マリアさん、突然、申し訳ありま
せんでしたわ」
「いいわよ、そんなの。じゃ、早くね」
すみれは思案顔でその場にしばらくたたずんでいたが、思いきったように、チェ
ストの一番下の引き出しを開けた。
帝劇に新人がやってきて、数日がすぎた。
「譲おにいちゃん、おはよう。よく眠れた?」
「おはようございます、柿本さん。さっそく、見回りのお仕事してくださったそ
うですね。ありがとうございます」
朝食の席でアイリスとさくらが、その新人の世話を焼いている。上京したばか
りで、まだ、帝劇の外へ出たことがほとんどない彼を、二人で帝都見物に連れて
ゆくのだと言う。特に柿本に落としたブローチを見つけてもらって仲良くなった
アイリスは張り切っている。
かと言えば、浮かない顔で食卓についている者もいた。
「どしたん、マリアはん。ため息なんかつかはって。なんぞ考えごとでもあるん?」
「え? いいえっ、何でもないわ」
マリアは慌ててコーヒーカップに唇をあてる。その向かい側で、すみれはぼーっ
としたまま、フォークを手の先にぶらさげていた。
「す、すみれくん?」
となりに座った大神が、すみれの前で掌をひらひらさせる。
「・・・はぁぁぁぁぁ、あ、少尉」
「何、寝こけてやがんでぇ。早いとこ食っちまってくれよ。目玉焼きに何十分か
けてんだ?」
本日の皿洗い、カンナがいらいらと声をかける。
「わたくしのように、デリケートな人間は、朝は弱いんですのよ、おーっほほほ
ほほ」
すみれの高笑いを惚けたように見つめる新人に、紅蘭が耳打ちした。
「柿本はん。長生きしたかったら、あの笑い声には関わらん方がええで?」
「・・・胆に命じます」
「ふぁぁぁぁぁ」
「すみれ、本当に眠そうね。夜、ちゃんと寝てるんでしょうね?」
「よ、夜更かしなんかしてませんわ、マリアさん。ですから、見回りには来なく
て結構ですわ」
「そう?」
どことなく残念そうなマリアに周囲が苦笑する。最近では、花組の隊員達がマ
リアに雷を落とされることも少なくなっていた。もっとも、それは皆の素行が良
くなった、ということでは決してない。要領が良くなっただけのことである。
だが、奇妙なことに、すみれが朝からぼけっとしている日がそれから何日か続
いた。お茶を飲んでいてカップを割るわ、ご飯粒はぼろぼろこぼすわ、自分の着
物の裾ふんでコケるわ、それでいて稽古となると誰よりもしゃんと
立っているからマリアも大神も何も口を挟むことが出来ない。
「どうしたんでしょうねー」
舞台上で、悲劇の王女になりきったすみれを見やりつつ、さくらがつぶやく。
その問いに答えることの出来る者はいなかった。
稽古も中盤にさしかかったころ、舞台で一つの対立が起こった。
「納得出来ませんわ!」
中央で仁王立ちになったすみれが睨みつけているのは、脚本家の野際龍平だっ
た。
第三幕の二場、いよいよクライマックスに差し掛かるという名場面である。
「納得出来ませんわ。オルミアの独唱を変える必要なんて、ないじゃありません
の?『火を放て、弓を持て』───敵国に攻め込まれ、宰相に裏切られ、孤立無
援の王女が、果敢に戦いを挑んでいく歌ですのよ? オルミアの勇敢さをアピー
ル出来ると思いますわ。わたくし、この歌を気に入ってますの」
すみれは、龍平に指を突きつけた。
「納得いく説明をしてくださらないこと?」
それまで、おろおろとすみれの剣幕を眺めていた龍平だが、それでも首を振り
ながら自分の主張を補足した。
「・・・理屈じゃ、ありません。この歌詞を書いた時に、ぼくは失念していまし
た───お客様の中には、昨年九月と、今年三月の被害にあわれた方も多いとい
うことを。『火を放て』というのは、まったく軽率だったと思います」
「・・・」
龍平は、新しく書き上げてきたらしい歌詞をすみれに差し出しながら言った。
「だから全体的に比喩的表現に抑えてみたんです。タイトルは『外は嵐』と変更
します。オルミア王女の攻撃を表わした歌詞は削除しました。攻め込んでくる敵
を嵐にたとえ、まだひっそりとした王宮内の自室で、その嵐から王国を守り抜こ
うという決意を表わした歌詞にしました」
「でも・・・、それだと一連の流れが変わってしまいますわ? これまでは、剣
と松明を持って敵中を駆け回りながら歌ってましたでしょう?」
すみれが演出家を振り返る。
「・・・すみれ君さえよかったら、ここは動きをつけずに歌だけというのは、ど
うだろう?」
長谷が静かに提案する。
「歌、だけ・・・?」
「そう。照明を落として、すみれ君にスポットライトを当てるだけにしてね」
すみれは、しばらく考えこんだ。その視界の隅に、客席のさくらがちらりと写
る。すみれは決然と頷いた。
「わかりましたわ。王国の存亡を賭けるオルミアの心、歌だけで立派に表現して
見せますわ。それがヒロインたる、わたくしの務めとあらば」
すみれの言葉に、舞台袖で成り行きを見守っていた紅蘭とマリアがほっと息を
ついた。ここで、わがままを持ち出されて、稽古に支障が出るのでは、と少なか
らず不安だったのだ。
「いやあ、すみれはんも、大人になりましたわ」
紅蘭の軽口も、安堵のためかいささか度がすぎる。
「ここで暴れはったら、野際はん、吹っ飛んでいきよります」
「大げさね」
マリアが微苦笑をもらす。
二人の視線の先には、さっそく長谷の提案を入れて、構成を変えた第三幕が開
始されている。
王女の部屋のセットが運び込まれ、照明が落とされた。
舞台の中央に立ったすみれに、一条の光が当てられる。
その喉元に、オレンジがかった淡いピンク色の宝石が揺れていた。
「すみれったら、米田支配人に注意されたというのに」
数日前に、アイリスが両親から贈られたブローチをなくし、かんしゃくを起こ
してバルコニーを大破させた。
以後、米田から、実質上の「アクセサリー禁止令」が出ているのである。
「まあ、おいそれと自分を曲げんお人やさかい」
紅蘭も、苦笑を含んで言う。
「しかし、高そうな首飾りやなあ。すみれはんやったら、いくらでも、持っては
るんやろうけど。ウチ、あんな珍しい色の宝石、見るの初めてや」
「蓮華の花の色なんですって」
マリアは、すみれに講釈された話を思い出して言った。
「蓮華? すみれはん、蓮華は嫌いなんや、おまへんか?」
「そうだったかしら?」
「いつやったか、サロンですみれはんとマリアはん、それにあやめはんが、ブン
ガクの話題で侃々諤々やってたこと、ありましたやんか。あの、あやめはんが持っ
て来た芥川龍之介の短編に、すみれはんがいちゃもんつけなはった時」
マリアが少し考えてから、頷いた。去年の夏のことだ。
「ああ、そういえば、あの時、蓮華の話になったのだわね」
「そやそや、古今集やら今昔物語やらの話になって、ウチやカンナはんは、早々
にリタイアしましたけどな」
「あれは・・・、ある極悪人が、改心して仏にすがろうとして、一心に西へ歩き
続けて、ついには木の上で餓死してしまう。で、その死体に蓮華の花が咲くのだ
けれど、これが往生、つまり極楽の象徴だという話ね」
「で、すみれはんが、そんなの絶対あかん、いうたんでしたな」
「そうだったわね。そんなに簡単に救いが手に入ってはいけない、蓮華なんて必
要ないって言ったのよね」
「いやー、あん時は、いつのまにやらすみれはんとマリアはんの恋愛論になって
しもうて、大変でしたわ」
「!? 何言ってるのよっ、そんなこと話してないわ!」
マリアが真っ赤になる。自分で口走った内容を思い出しているのだろう。
「あははっ、はいはい。でも、あやめはん、芥川好きでしたなー」
「───そうね。私もずいぶん勧められたわ」
「今になってみると、不思議ですわ。ほんまはミカエル様やったあやめはんが、
ウチらと極楽やら仏様の話、しとったなんて」
「・・・」
「ウチら相変わらずやし、今日は昨日の続きみたいやのに、あやめはんのいてはっ
た部屋には新人さんがおるし、すみれはんは嫌いや言うた蓮華の色を身につけと
るし、変わったことを変わったと思わん内に、確かに昨日と今日はおんなじでは
なくなっとるんやね───ウチ最近思うんですわ。時が過ぎるって、こういうこ
とを言うんやないかって」
「・・・」
「あ、何や変なこと言うてもうた。堪忍、マリアはん」
「いいのよ───別に」
どこか寂しげな笑顔を紅蘭に向け、マリアは聞こえないほどの小声でつぶやい
た。
「確実に、時は過ぎるもの、なのよね・・・」
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