逃げ水

featuring Sumire Kanzaki

 その夜、書庫を出た大神は腕時計を確かめて、顔をしかめた。
(もう、こんな時間か。見回りもそろそろ終わりにしようかな)
 そう考えた時、視界のすみをふらっと横切る影があった。
 すみれである。
 声をかけようとした時、頭上の灯りがすっと消えた。消灯時間だ。
 大神はしばらく腕組をして考えていたが、やがてそっとすみれを追って地下へ
下りて行った。
 懐中電灯で足元を照らしつつ進んで行くと、鍛練室の奥から水音がする。大神
はプールのドアを開けた。差し込む光に、すみれが振り返る。
「あ、あら、少尉」
「すみれくん・・・。こんな時間に何をやってるんだ?」
「しょ、少尉こそ、もうとっくに見回りは終わってる時間でしょう? 今までさ
ぼってらっしゃったの?」
「ご、誤魔化すなよ。泳ぐのは、消灯時間の一時間前までと決められてたはずだ
───もしかして、寝不足だったのは、今までずっと隠れて泳いでいたのかい?」
「・・・」
 すみれは、水の中で、唇を噛んでいた。
「すみれくん・・・、君が言ったんだぞ。『スターに失敗は似合わない』って。
無理して身体を壊しでもしたら、それこそ、取り替えしのつかない失敗だぞ」
「少尉、お気遣いはありがたく思いますわ。でも、これも舞台の為ですの。もう
少し、動きを軽やかに見せたいんですのよ。それには、身体を引き締めておきた
いんですの」
「しかし・・・、以前、舞台袖からちらっと見せてもらったけど、充分だと思っ
たけどな」
「まあ。それはありがとうございます。でも、わたくし、自分で納得できない点
に妥協はしない主義ですの」
 ごめんあそばせ、とつぶやいて、すみれはそのまま水中に消える。懐中電灯で
照らされた揺らめく細波の合間に、のびやかなすみれの腕や脚が見え隠れする。
「やれやれ・・・」
 華麗な水飛沫をあげるすみれを、しばらく見守っていた大神だが、つと立ち上
がると扉の向こうに消えた。すみれは気付かぬまま、ターンを繰り返していたが、
急に明るくなったことに驚いて、その場に止まった。
「───灯り、ここだけ付けてきたからね。帰るときは消してってくれよ」
 鍛練室の方から、大神の声が届く。
「少尉」
 すみれは彼を呼び止めた。
「少し、よろしいですかしら・・・?」
 プールサイドに腰掛けて、すみれは大神を手招いた。
 大神は、大胆な水着姿のすみれに狼狽しながら、近くに腰を下ろした。
「───少尉は、『逃げ水』というのを、ご存じ?」
「逃げ水?」
「ええ。夏によく、道の向こうに水たまりがあるように見えますでしょう? な
のに近寄って行くと、それが幻だとわかる───まあ、蜃気楼のようなものです
わね」
「ああ、それなら知っている。そうか、あれ『逃げ水』と言うんだね。近寄ると
逃げて行くように見えるから・・・」
「わたくし、いつか『逃げ水』を捕まえてみようと思うんですの」
「?」
「かつて、母が父に見初められた時、一悶着あったと聞いておりますわ。当時は、
女の身でありながら芸をするというのは、河原乞食よりも卑しいとされていた頃
ですもの。そして父も、豪傑と言われた祖父の影でしかなかった時代ですわ」
 大神は黙ってすみれの言葉に耳を傾けた。
「結婚した後も、父は母の仕事を止めることはしませんでしたわ。良き妻、良き
母であることが、良き女の条件である時代に・・・。わたくし、父の強引なやり
口にはがまんがならないのですけれども、こんな風に母を守るためなら世評をも
押し切る父の強さには好ましさを感じてしまうんですの。おかしいですかしら?
少尉」
「いや・・・」
「わたくし、思うんですの。許されなかったからこそ、父は母との恋愛を貫いた
のだと。いつかも、申しましたでしょう? シンデレラの魔法のように、『誰か
がかなえてくれる』魔法は、やがて解けてしまうものですわ。わたくしも父や母
のように、わたくしの力で、かなえてみたいんですの」 
 大神には、無茶にも思える行動を、すみれが重ねる訳が少し見えたような気が
した。
 彼女とて好きで、神崎財閥の跡取り娘に生まれた訳ではない。
 だが、その生まれのせいで、彼女の「努力」はかなり割り引いて見られている
のではないだろうか?
 勿論、すみれ自身は「努力」などと露ほどにも認めないだろうが。 
 舞台で映える舞踊や歌、優雅な挙措、美容にかける大金や豪華な服飾品にいた
るまで、すみれは自分を高めるためにまったく妥協はしていないのだ。
 「神崎の娘ならば、当り前」、「お嬢様の道楽」、どんな陰口をたたかれよう
と毅然と自分のスタンスを崩さなかったのは、すみれの中に確固たる美意識があっ
たからなのだろう。
 こうありたい、という自分自身の理想像が。
「たやすく手にはいる評価など、わたくしは望みませんわ。追っても追っても、
近寄ることすらかなわない、真夏の逃げ水のように、いつだって遥か向こうの夢
を追い求めていたいんですの───そして、いつか」
「捕まえる、か・・・」
「ええ」
 頷いて、すみれはぎくりと身を震わせた。
「ま、まあ、とんだ無駄話をしてしまいましたわね。忘れてくださいな」
 肩まで真っ赤にそめたすみれが、そそくさと水の中に逃げ込む。
 遠ざかってゆくすみれのストロークをしばらく眺めて、大神は見回りを切り上
げた。

 八月に入ると、空梅雨だったこともあって、水不足を告げるニュースが、サロ
ンのラジオでも流れるようになった。
 古の大地<大和>が浮上するという怪異があったばかりの帝都では、異常気象
を怖れる声もあちこちで囁かれるようになった。

 大帝国劇場では、初日を明日に控えての、最後の通し稽古が終わった。
 紅蘭特製の早変わり装置『かわりみくん』もうまく作動し、演出家の長谷がす
べてに及第点をつけた。
「なんとか、いけそうね」
 稽古中、一度も楽観的な言葉を口にしなかったマリアが、ようやく言った。
「だな。アタイもけっこ、今回は自信あるぜえ」
 海賊姿のカンナが応ずる。
「出ずっぱりのマリアとすみれが頑張ってっからな。こっちも引きずられちまっ
た」
「まあ、カンナさんが私を褒めてくださるなんて、珍しいこと。やっとわたくし
の実力がおわかりになったのね?おーっほほほほほ」
「・・・あのお姫様はもうちょっと、品があるような気がしたけれどな」
「何か、おっしゃって?」
「い、いや。別に」
「でも、すみれはん。ほんま感動したで。なんや突っ張らかってるんやけど、実
は人恋しいとことか、微妙な匙加減っちゅうやつ?」
「高飛車に見えて、細かいところで気を使ってるとことか、とても健気な王女サ
マって感じで」
 さくらも話に加わる。続いてアイリスも、
「わがままで、はでずきで、すましてるんだけど、ちょおっとどじなとことかー」
「そうそう。人の言ってることを聞かないで突進するとこなんか、特に味があっ
て」
「───なんだかそれだけ聞いてると」
 マリアがすみれをじっと見つめて言う。
「誰かさんのことみたいね」
「・・・どういう意味ですの?」
 全員が口を揃えた。
「───別に?」

「あれ、すみれくん?」
 今日も今日とて夜の見回りに歩いていた大神は、舞台に人影をみつけた。
「また夜更かしかい? 明日は初日だぞ」
 苦笑まじりに近寄っていった大神はすみれの身につけた衣装を見て眼をみはっ
た。明日からの公演で着るはずのドレスだった。
「あら、少尉」
 振り向いたすみれの顔はいつもの彼女のものではなかった。 
「───少尉には、都合の悪いときばかり、出くわしますわね」
「そ、そうかな? ごめん」
「謝らなくともよろしいですのよ」
 すみれは、まっすぐに客席を見つめて座り込んでいた。
「イメージトレーニング?」
「・・・まあ、そのようなものですわ。少尉───『戦う女』をどうお思いになっ
て?」
「いいっ?」
 突然の問いに大神は焦る。ここで下手に返事すれば、花組の隊員達の機嫌を損
ねること必至だ。
「うーん。うーん。俺は『女だてらに』って言葉は差別的で好きじゃないけど、
でもやっぱり、女性の身で戦場に立つのはすごいことだと思うよ。生半可な覚悟
では出来ないことだしね───これは男女関係ないと思うけど、信じるものがな
いと出来ないことじゃないのかな」
「そうですわよね。もしオルミアがわがままな名前だけの王女であったなら、戦
いなど、軍隊にまかせて、さっさと逃げてしまっても構わなかったんですものね
───わたくし脚本を呼んだ時にはわかりませんでしたのよ。『勇敢な性格』だ
けで、人は戦えるものではない、なのに、何故この娘は戦いにゆけたのだろう、
とね」
「あ、舞台のことか、なんだ・・・」
「でもね、少尉。オルミアは一人で戦っていたのではありませんわ。友人が駆け
つけてくれることを、国民が立ち上がってくることを信じていたからこそ、彼女
は戦えたのだと思いますわ───気付いたんですの、この娘はわたくしだって」
 すみれは、愛しげにオルミア王女の衣装を撫でた。
「わたくしも、一人だったら、ここにこうして立ってはおりませんでしたわ」
 すみれのいうのは、この舞台のことなのか、それとも帝撃の数々の戦いのこと
なのか。大神は黙っていた。
 あえて訊くのは、そう、野暮というものだから。
「・・・ま、まあ! またつまらない話をしてしまいましたわね」
 すみれは、またもや赤くなった。
「久しぶりの主演で舞い上がってしまったようですわね。もう休むことにいたし
ますわ」
「ああ・・・、そうしなよ」
「では」
 白いドレスの裾を翻して、すみれが舞台袖へと消える。
 大神はすみれがそれまで座り込んでいた位置まで行き、客席を見渡した。
 明日は、この七百五十席が子供達で埋るのだろう。そして、胸踊らせるに違い
ない。遥か彼方の理想を求めて戦う王女の姿に。
 大神はセット裏に異常がないか確認し、最後に照明を落した。
 舞台は暗転し、開演の時を待つ。 


 すみれ編のテーマは「女優・神崎すみれ」と、サロンでの会話「魔法」に
関してです。
 某「ガラスの仮面」の姫川亜弓もそうですが、母親が大女優の場合、
同じ道を歩んだ娘は悩むものと相場が決まっています。(そうか?)
 また、すみれさんは、花組の女優陣のなかでは一番、基礎がしっかりして
いるはずなのに、ゲーム中ではギャグな役ばかりが目立ってましたので、少
し良い役もやらせてあげたいと思った所もあります。

 「魔法」「逃げ水」「浄土」と、作中ほぼ同じ意味で使ってありますが、
すみれさんは向上心ありまくりのようですから、「人の手は借りずに、自分で
努力する」というあたりを書きたかったのです。
 なお、マリアさんと紅蘭の会話に出てきた芥川龍之介の小説は「往生絵巻」
という短編です。「今昔物語」を題材にした話として、教科書などにも載っ
ているそうです。ただし、これに出てくる「蓮華の花」は白です。
 でもすみれさんに「浄土」は似合わなさそうですね(^_^;)
 ちなみに「蓮華色」のサファイアは最高級品です。ペンダントにするくらい
の大きさだと、現在のお金で1000万円はくだらないということです。さす
が金持ち(^_^;)